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こんにちは、宿屋のおやじです。
まだ学生の頃に聞いたタウンミーティングという言葉は、国会で使われていた「タウンミーティングじゃないんですから」でした。
その時はタウンミーティングってなんだろう?とすら思っていなかったかもしれません。ですが大人になった今、ときたまそういったものに参加させてもらっています。
タウンミーティングといえば、市民が集まって定められたテーマについてアイデアを出したり議論をしたりするものや、行政が市井の声を聞くために行うものなどがあるかと思います。
いずれの形においてもその場で何かが決定することや法的な拘束力を持つような場ではありません。そのことに対して、以前の僕は「なんでこんなことをするんだろう?意味なくない?市民より行政の人の方が色々知っていて賢いから行政が決めたほうが良くない?」と、かなり否定的に捉えていました。しかしながら、参加していく中で感じたことは「タウンミーティングという手法自体は有用である」ということでした。議題に対して複眼的に捉えることや思いついていないアイデアを得られる可能性もありますし、全体の合意形成を図る上でも有用です。しかしながら、あまり実りのなさそうな会があるのも事実です。いわゆる形骸化してしまうというやつです。
タウンミーティングが形骸化してしまう理由は”参加者”にあります。
参加者には主催者側(主に行政)と参加者側(主に市民)が存在しますが、それぞれの考え方やスタンスによって、この成果は大きく変わると思います。
例えば先日、富山県知事と一緒に富山の未来を考えるというタウンミーティングがありました。
そこでは、県知事から富山県が抱える課題や将来への方向性を聞いたり、30年後の未来にどんな町でありたいか、そのために今何をすべきか、といった内容でグループディスカッションを行いました。
会自体は沢山のアイデアが出たり、活発な交流が見られたりと大いに盛り上がっていたのではないかと思います。
ですが、これが本当に未来の富山を良くすることを目指す会であれば大切なのはここからです。今日出たアイデアが将来を良くするものであるならば、それは絶対に実現しなければいけない。その実現に向けて行政と市民が双方に努力をしていけるかどうかが非常に重要なのです。
行政側としては、市民の声を吸い上げ政策に反映している、というポーズのためだけではいけないし、今回の意見がどのように反映され、どのように反映されなかったかを開示すべきです。
一方で市民側は、好きなことだけ言いっぱなしであとは行政がなんとかしてください、というスタンスではいけないでしょう。言ったからには小さな一歩でも良いから一人ひとりの市民が努力をすると良いでしょう。
もっと言えば、そうしない限り僕らのような消滅可能性都市は存続が難しいと思います。
「こうなったら良いな、ああなったら良いな」だけでは誰もそれを叶えてくれません。なぜなら現代は人も金も潤沢でないから。地方で楽しく暮らすためには自責の念を決して忘れてはいけないと思うのです。
夢を見ることを良いことです、理想を掲げるのは良いことです。ですがそれだけではダメで、
「ああなったら良いな、だからこれをやろう」と自分達で動くところまでセットでやる覚悟を持つことが大切なのだと思います。
なので件のタウンミーティングが本当の意味で良いものであったかどうかは今はまだ判断ができず、これからの我々自身の動きによって決まると言えるでしょう。
ところでそのタウンミーティングの中では、AIや機械が進化した未来でこの町はどうなっているか?という問いかけがありました。それに対して僕は「本物の人間が接客している宿があるということで大バズり」と答えました。
今後ますますリアルの接客やリアルの体験の価値が高まっていきます。これは、人の温かみがやっぱり良いよね、というふんわりしたものもあるのですが、シンプルに”リアル接客の希少性が高まること”による価値の上昇があると思っています。
人間による接客とロボットによる接客の優劣や良し悪しは見る観点によって異なると思いますが、今後ますます接客分野においても省人化・機械化が進むでしょう。数十年後か、数百年後か、世の商業施設から人が消えるその時にも、イミグレでは人間による接客をお届けしたいと思っています。
話がそれましたが、先日のタウンミーティングで発言した未来を勝ち取るために、無くならない接客サービスを磨いていこう、と自分で勝手に決めたというお話です。
タウンミーティングや有識者を集めた会議などは、複数の視点から議題をあらうことで気づけなかった課題に気づける良い手法でもある一方、誰かが主体的じゃなくなった途端、時間の無駄以外の何物でもない時間へと変貌します。
このことを念頭に置いてこれからの宿運営やまちづくりに携わっていきたいと思うばかりです。
– 宿屋のおやじ –